
佐世保市天神4丁目11-12
実家裏愛犬ベス殺し食い生グサ盗人下田大作オヤジ一家 (改再掲)
十円玉を口に咥えていると、30分位でピッカピッカの新品同様になる。誠にお恥ずかしい話ながら、当方には小学校6年生の頃、十円玉を数枚咥えてピッカピカの新品に変える特技があり、皆褒めてくれ、自慢自慢。
当時はキタナイとか不潔といった観念が薄く、ドブが好きで、ノグソは木の葉っぱで拭き、帰りが暗くなり腹が減ると、そこら辺の畑で薩摩イモを掘り、土や肥やしを外皮ごと前歯で削り取り、生でガリガリと食べていた。天神山で深夜に腹が減ると下のそこら辺からダイダイを何個か取ってきて、残らず食べていたが、当方は酸っぱさを余り感じないらしく、他の者は食べれないでいたが当方はOK。
山にでかけると木の実があれこれ揃っていて、一応何でも食べてみたが、後年に毒の実ということを知ったりしたが、当時はどうもなかった。先ず口いっぱいに唾をため、歯で噛んで汁の味を舌で触り、それで食えるかどうか確かめ、違った味だと即唾ごと吐きだすため、問題なし。草もそうで、中学校は天神山を越えて往復していたが、とにかく腹が減り、道端に生えている草は一通り味わい、すっぱいような刺激のあるものをガジガジと噛んで空腹を凌いだ。
当時は山に行けば、自然のモノが一通り揃っていて、特に米軍弾薬庫上の万里の長城に囲まれた前人未踏風のジャングルは、アケビやウベ(アケビの大きいやつ)が食い放題で、山柿や、石ナシ、山クリ、山ビワなど何でも食べた。野イチゴは手あたり次第に口に詰めこみ、口の中で虫が動くと吐きだしていた。
近所にヤマカカシ(蛇)が沢山いて、見つけると必ず捉え、クビに巻いたり、頭を口の中に入れてみたり、得意得意であった。近年ヤマカカシに人を殺す位の猛毒があることを初めて知ったが、当時は誰も教えてくれず、知らぬが仏で、マムシだけが毒蛇であった。マムシと違いヤマカカシは必至こいて石垣に逃げるため、尻尾を掴んで引きずり出した。
当時よく山こぶ(コガネグモ)を喧嘩させて遊んでいたが、次のクモを手に握っていると、よくガブッと噛まれるため、地面に叩きつけて踏みつぶしていた。後にクモには毒があることを知ったが後の祭りで、多分やられている。
多分これらのどれかが原因で、中二の頃は授業中に口の上の穴から、ブドウの中身のような塊がボトっと落ちて来て、噛むとグミみたいにグジグジブヨブヨで、繊維に包まれていて、まさか吐きだす訳にもいかず、毎度ゴックンと呑み込んでいた。外でみるとブドウの中身と瓜二つ。
数年前、近所の道の駅風の大型店舗で、地元農家の手作りヌカタクワンを買って食べたら、うんこの匂いがしたが、おいしく、病みつきになり、他の農家のモノも次々テストしたら、どれも同じ味で、同じヌカ床を使っていて、同じうんこの匂いがした。
ヌカ床は毎日コネることがおいしくするコツらしく、ふといつコネているのか考えてみた。手を洗ってからコネてまた手を洗うはずがなく、先ずコネてからついでに洗うのが普通。手を洗うのはトイレの後と相場が決まっており、うんこを拭いた手(ツメ)で先ずコネてから次に手を洗うのが効率的で、野良仕事帰りについても同じ。トイレ後だと手にうんこの腸内細菌がついているはずで、これでコネ、それを当方が食べるため、つまり、おじさんおばさんの腸内細菌を当方がありがたがって口に入れているということ。
このタクワンを食べ始めてから、当方のうんこがタクワンと同じ強烈な匂いがするようになり、間違いなく移されたことが分かる。相当強力な菌のようで、他の菌を駆逐して死ぬまで居座る可能性が高い。対策にビフィズス菌に凝っていて、かなり収まった。
一昨年、自家性タクワンの販売が食品衛生法で禁止となったが、まあ妥当なところ。
先般NHKか何かの番組で、人間の脳をコントロールしているのは腸内細菌であることが最近の研究で分かったらしく、つまり当方の脳みそが例のおじちゃんおばちゃんと同じレベルと気づいて愕然とした。多分これが最近何かボ~~っとしている原因で、ネコの額畑に手を染めたのが二年前でタイミング的にも、合点がいく。
十郎原団地の丘陵は当時一面の麦畑で、手前に大きな四角い肥溜めがあり、表面が固まり草やなんや生えていて、みんなでトランポリンして遊んでいたら、割れて、修二が落ち、肥溜めの中で頭までドロドロになって泳いでいたが、助けられ、一抜けし、洗いに戻った。多分修二の脳みそはアレコレの腸内細菌が一杯で、高専に行けたのも肥溜めのオカゲ。
当時はかすみ網猟が禁止されておらず、スズメがからまって大量にもがいていたが、多分ぜんぶ焼き鳥になったはず。あそこにはキジのつがいが住んでいて、目の前をトトとっと逃げたりしていた。
十郎原丘陵の眼下に佐世保湾があり、急斜面を下ると東浜漁港で、その横の山崎海水浴場が当方らの溜り場で、今は亡き、盗人町内会長の本多良一某と殴り合いをしたのもココ。ヤツが通路の草むらに水中眼鏡を置いていたため、誰かが踏んで壊し、ヤツが烈火の如く猛り狂い、執拗に喚くため、当方がウルサイと言ったためだが、当時水中メガネは高級品で、ヤツが必死で何とか手に入れた唯一の財産であったことが原因。当家はヤツの家とは段違いの金持ちだったので、その大切さが良く分かっていなかった。やった犯人は盗人本多良一某から買って返せと狂われるため、オイバイと正直に名乗り出れるはずがなく、通路に置いた盗人本多良一某がすべて悪い。
これが災いしたのか、その後当家の下の竹やぶから出火し、警鐘がガンガンなり、消防車がかけつける大騒動となったが、後日隣のSから盗人本多良一某がすぐ横で『燃えろお~。もえろお~』と踊っていたと聞き、ヤツが火をつけたことが分かった。やつの家は裏山の向うで、当家との行き来がゼロであったため、必死で走っても間に合わず、ヤツがこっそり火をつけたことで間違いない。
数年前にヤツが当家実家に当方の留守を狙ってコソドロボーに入り、メチャクチャやらかしたのも50年前の逆恨みの怨念と思う。
当時棚田を少し下ると轟湾があり、アサリが30分位でバケツ一杯取れ、ハゼが入れ食いで、真珠養殖のいかだから飛び込むと2メートル位底のあちこちにタコの穴が開いており、手を突っ込むと絡んでくるので、一口ダコが沢山取れた。針金の先をU字に曲げ、干潟の穴に突っ込むと長いマテ貝が引っか掛かってくるので、最近流行りの塩を入れて待つ必要が無い。ミナ(小さな巻貝)がそこら辺の岩に大量についており、塩で湯がくとおいしく、味が濃厚で、多分これが海で一番のご馳走。針でホジクリだし、おやつ代わりに延々と食べた。
轟湾には天然記念物のカブトガニがいて、遠浅の湾の真ん中でご近所さんがモリで突いて、毎度数匹腰にぶら下げ帰っていた。焼酎の肴にしていて、冬近くでも腰までつかってやっていた。ご当人の家のゴミ捨場はカブトガニの残骸が山積みしてあった。毎度二階の窓から顔を出し中空に向かい大音量で喚いていたが、当方を見るとニッコリし、毎度黙り、或いは奥に消えた。口上が『上等兵と思ってのぼすんなよ~~!』で忌まわしい戦争の犠牲者だったことが分かる。ご近所さんは一切ノータッチ。
轟湾の手前の岩穴に年寄が一人住んでいて、何でも家族から追い出されたらしく、横を通る度に挨拶代りに石を投げ込み、なべややかんに当ればヒットでガラガラと音がし、年寄がエライ剣幕で飛び出してくるので、逃げて遊んだ。これが毎度。たまに入口で見張っていることがあり、射るような視線の下、当方らは良い子ぶって知らんぷりで通り抜けた。で、帰りにまたやらかした。
近所の堤にウナギがいて、ネコを誰かが放り込んだらしく、全体がウナギの大群で囲まれ異様な光景であった。日宇川の河口の堰にウナギが来ていると知らせがあり、出向くと岸壁が一面ウナギの大群で覆われ、大騒ぎだったが、獲ろうとする者が一人もいなかった。
隣に後年県内有数の鉄筋(?)会社の会長となったSがいて、毎度ニコイチで出かけ、子供の頃はいつも一緒だった。一段下に同期890人中成績三位のKがいて、毎度二人であちこちに遠出した。小5の時は自転車で二人乗りし27キロ先の西海橋を見に行き、まだ砂利道だった坂道を漕いで登った。中1では天神山を越え、弓張岳の頂上までテクテク歩いて行ったが、途中で良からぬ輩連中と出会うなど、結構な冒険であった。この頃には二人とも自転車を持っていて、佐世保の街中を走り回った。
父親が米軍で電気技師をやっていた関係で、毎年夏になると、米軍の揚陸艦で白浜海水浴場に出かけ、途中ワザワザ空母のへさきの下を通るサービスなどあり、ステーキ食い放題、缶ジュース飲み放題で、当方らは小学生ながら缶ビール飲み放題であった。
不思議なことに当時は、天神山も天神小学校の運動場も、どこに行っても当方らの溜り場で、よそ者が殆どいなかった。中三当時、後年ヤクザの親分になったMの家が溜り場で、横の道路にズラリと並んでいると、地区外のやさぐれ連中が勝手にびくびくしながら通っていくのが面白く、当方らは単に横一列に座ってゲラゲラやっていただけ。
中学時代は試験の一週間前から4人で集まり朝まで勉強していたが、遊びを兼ね面白く、一度も欠かしたことがない。深夜にSの家から出てみるとバス通りの三叉路が一面雪景色で、車のわだちがなく、シンとした真っ青の景色の中、バス停に裸電球がオレンジに輝き、天上が一面星でひしめき、人生最高のベストショットであった。このシーンを忘れまいと、キッチリ脳ミソにROMしている。
当方らはいわゆる団塊の世代で、半径50~100メートル圏内に同じ年代が30人位いて、海や山やソフトボールなど集団行動が多く、裏山の広場でいつも誰か遊んでいて、すぐに合流し、アウンの呼吸で皆一緒にでかけた。ノーはなかった。
ホンマ遊んで遊んで遊びまくり、ほぼ全員が貧乏人ながら、光り輝いた時代であった。三歳頃からずっと一緒で、ホンマの竹馬の友。
当方らの人格や行動パターンはこの時代に形成されており、今でもキッチリ脳裏に刻み込まれており、やつらの声が聞こえ、顔が見え、家族と過ごした時代が鮮明で、多分これが人生一番の宝。この数年後、当方は脳みそをヤラレ、戦争状態に入り今に至る。
なので、実家裏の犬猫殺し生臭オヤジ一家の脳みそが理解できない。愛犬ベスを叩き殺し、粗末な晩飯の一点豪勢のおかずにし、思いきり肘を張っており、どう見てもクズの類でそれしかない。連中が触ったところに触らないようにしないと、犬殺しが移るので要注意。先般オヤジが錆びたボロボロの金網を当家の植木に錆びたボロ針金で結び付けていたため、その魂胆の異様さが気色悪く、一切触れずにペンチで切取り、足の裏で蹴り倒したのは正解。ついでにパチンコ屋から盗んで来た旗竿も蹴り倒し正解。今後は同じ空気を吸わんように、見かけたら石コロでも投げて追い払わんといかん。
先日、横の公園の上の方にネコが見えたので出向いた際、ふと見ると、当家のブロック金網塀にズラリとゴミがかけてあり、瞬間沸騰したが、帰る寸前だったので我慢。が、ヤッチャらなアカンと思い、知り合いに写真を撮って貰ったら、何と、当家のブロック金網塀の向うに自前のボロ棚を作り、そこにぶら下げており、生グサ盗人オヤジ輩も少しは分かって来たようで、尻尾を出さない。が、連中がやらかしたネコ殺しや窃盗犯罪が消えることは無く、連中を終らせるのが当方に課せられた天命であり、人殺しボンクラ医者連中についても同じく、天命。天命なので失敗はなし。
以上、消さない。
サービス7
https://www.youtube.com/watch?v=EwLDSgkhIW4